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不幸の忘却

定義:不幸の忘却

人は、不幸を自覚せず、ただ自分の境涯に慣れて生き続ける。
それを可能にするのが「気ばらし」による「不幸の忘却」である。

私たちは、常に不満や不安があるのですが、
惰性で生き続けることができるのは、気ばらしによって、
自分の不幸を見ないようにしているからです。

この気晴らしによって悲しみを誤魔化し、
気晴らしをして喜んでいる人間の姿を、
パスカルは次のようにいっています。

数か月前にひとり息子を失い、訴訟や争いごとで打ちひしがれ、つい今朝がたまであんなに心配していた男が、今ではそんなことを思いもしないのは何故か?驚くには及ばない。六時間前から猟犬が猛烈に追いかけている猪が、どこを通るかと一心不乱に見ているからだ。彼にはそれ以外のものは何もいらない。人間はどんなに悲しみで満ちていても、なんらかの気晴らしにうまく引き込まれさえしたら、その間は幸福である。また人間はどんなに幸福であっても、倦怠が心のなかにはびこるのを妨げるような、何らかの情念や娯楽で気晴らしをしなければ、やがて憂うつになり、不幸になるだろう。気晴らしがなければ喜びはなく、気晴らしがあれば悲しみはない。(パスカル『パンセ』)

なぜ人は気ばらしを求めるのでしょうか。

これまでに論じたように、
気晴らしがなければ、退屈になったり、不安になります。

パスカルは、
人間が悲惨な存在だから気を紛らすのだ
と言います。

人間生活のみじめさから、すべてこのようなことは生じた。すなわち、人々はみじめさを見たので、気ばらしを求めたのだ。
もし我々の状態が真に幸福であったら、自分を幸福にするために、自分の状態を考えることから気をまぎらす必要はなかったであろう。(パスカル『パンセ』165章)
気ばらし──人間は死と悲惨と無知とをいやすことができなかったので、自分を幸福にしようとして、それらをまったく考えないようにした。(パスカル『パンセ』168章)

人間がどんな存在なのか、よく考えてみてください。

どれだけ恵まれていても、
これで満足ということはありません。

生活が安定しても、今度は退屈になって
余計な苦労を始めます。
そうこうしている間にも、事故に遭ったり病気になったりして、
手に入れた幸福が崩れるかもしれません。

たとえ今幸福が続いたとしても、
明日にでも崩れるかもしれないという不安があります。

これらの不満、不安が常にあるにもかかわらず、
人間は自分自身をいとも簡単に忘れてしまうのです。

自己自身を失うという本当に一番危険なことが世間ではまるで何でもないかのようにきわめて静かに行われうるのである。これほど静かに済まされうる喪失は他に何もない。──もし何か他のもの、腕一本・足一本・金五ターレル・妻等々を失ったとしたら、まさか気付かずにはいまい。(キルケゴール『死に至る病』)

では逆に、自分が不幸なことを忘れて、
本人が悩まずに平気で生きているなら、
それはそれでいいと思えるでしょうか。

確かに、死ぬまでずっと気を紛らすことができれば
不満はないでしょう。

しかし実際には、気ばらしは一時的なもので、
気晴らしがないときは
もとの憂うつな状態に戻ってしまうのです。


定理:「歓楽尽きて哀情多し」(漢武帝、秋風辞)
喜び楽しみの果てには、悲しい思いが生じる。
気晴らしがなくなれば、不満・不安が
存在の内奥からわきあがってくる。

気ばらしをしている間は喜びがありますが、
心の底から幸せなのではなく、
外からくる刺激によって自分を楽しませているだけです。

したがって、何かの出来事によって
気晴らしがかき乱されれば、
もとの悩みを抱えた状態に戻ってしまいます。

ですから気ばらしによる喜びでは、
完全に悩みをなくすことはできません。

気ばらし──もし人間が幸福であったら、聖者や神のように、気晴らしをすることが少なければ少ないほどいっそう幸福であったろう。──なるほど、しかし、気ばらしによって喜ばせてもらえるのも幸福ではないのか?──いや、そうではない。気ばらしはよそから、外からやってくる。だから、依存的である。ゆえに、それは避けがたい悩みを引き起こす無数の出来事によって乱されがちなのだ。(パスカル『パンセ』)

気を紛らして自分の本当の姿を見ないように見ないようにして、
死への行進を続けることこそ最大の悲惨だとパスカルは警告します。

悲惨──惨めな我々を慰めてくれる唯一のものは、気ばらしである。とはいえ、これこそ我々の惨めさの最大のものだ。なぜなら、これは我々が自分をかえりみるのをことさらに妨げ、我々をしらずしらず滅びにいたらしめさせるものだからである。気晴らしがなかったら、我々は退屈するであろうし、この退屈は、我々をうながしてそこから逃れ出るさらに確かな方法を求めさせるであろう。だが、気ばらしは我々を楽しませ、知らず知らず死にいたらせる。(パスカル『パンセ』171章)

我々は断崖(危険)が見えないように、何か目隠しをして平気でその中へ飛び込む。(パスカル『パンセ』)

自己の喪失

人は、自分がどんな存在であるか、
深く考えようとしません。

他人と同じである方がずっと楽で
ずっと安全だというような気持ちになって、
群衆の中で一つの単位、一つの記号に堕しています。

自己を忘れ他人と同じように行動する者は
世間をうまく渡ることができます。

この姿をキルケゴールは「絶望」という病の
症状の一つだとしていますが、
人はそれを少しも病気だとは思っていません。

絶望のこの形態には世間では全然といってもいいくらい気づいていない。こういうふうに自己自身を放棄する人は、まさにそのことによってかえって世間の取引をうまくやってのけるこつ、いな、世間で成功をかち取るこつを体得するにいたるからである。……彼は小石のようになめらかに擦り減らされており、現在の流通貨幣のように通りがいい。世間は彼を絶望していると見なすどころか人間はすべてかくあるべきものと考えるのである。一般に世間は(これは当然のことだが)真実に恐るべきものの何たるかを全然理解していない。ただに生活に何の不都合をもきたさないだけでなく、かえってその人の生活を安易な愉快なものにするような絶望が全然絶望と見なされていないのはむしろ当然である。……こういうふうに絶望している人間は、そのためにかえって具合よく(本来、絶望しておればおる程いよいよ具合がよいのである)世間の中で日を送り、人々から賞賛され、彼らの間に重きをなし、名誉ある位置につき、そしてこの世のあらゆる仕事にたずさわることができるのである。世間と呼ばれているものは、もしこういってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけでできあがっているのである。(キルケゴール『死に至る病』)

自己凝視をしなかったために世俗的な幸福を得たところで、
自分を見失っていたら何の意味があるのか、
とキルケゴールは続けています。

もし私が最高の意味での冒険(最高の意味での冒険とは自己自身を凝視することに他ならない)を避けて通った卑怯さのおかげで、あらゆる地上的な利益を獲得することはできたが、──自己自身はこれを喪失したとしたら?(キルケゴール『死に至る病』)

でもなぜ自分が惨めな存在だと自覚しなければ
ならないのでしょうか。

あなたも、本人が苦しんでいることに気づいていなければ、
放っておいてもいいと思われるのではないでしょうか。

自分が自分を見失っていることにも気づかず、
常に不満を抱えていることも分からずに、
ただぼんやりと国家、国民の中に安住ないしは
没入しているのが平凡的な「ひと」です。
誤謬の中に生きていることに気づかなかったら、
いつまでたっても本当の幸福にはなれません。

真の幸福からどんどん遠ざかってしまうのです。

真理の光に照らして考えると実際は不幸なのにもかかわらず、ある人間が自分では幸福であると思いこんでいる場合には、彼は大抵の場合こういう誤謬から引き離されることを決して望まない。逆に彼はそのことに憤りを感じ、自分をその誤謬から引き離す人を最悪の敵と見なすであろう。……一般に人々はいたずらに虚栄心があり自惚れが強いばかりで、しかも大抵は自己自身についてはほとんど何の観念も もっていない。……もしも絶望が一種の迷いであるとすれば、自分も迷っていることに気づいていないという事は、それだけまたその迷いの度を増すことになる。(キルケゴール『死に至る病』)

人生という悲劇の中で喜劇的に生きている人間の姿を
凝視しなければなりません。

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現存在のすがた① 不満

現存在のすがた② 不安

現存在のすがた③ 快楽

現存在のすがた④ 平静

現存在のすがた⑤ 不幸の忘却

現存在のすがた⑥ 宗教的浄福

真の幸福とは?