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空虚・倦怠・退屈

常に新しい刺激がないと、人間は退屈になる。
仕事にせよ娯楽にせよ、何か自分の注意を引きつけることがないと、
空しさが心の奥底から生じてくる。
人は一室にじっとしていられない」ので常に激動・変化を求める。

衣食住がある程度安定して、
そこそこの快楽を享受することができても、
まだ私たちは満足することはできません。

常に何か新しい刺激がないと、退屈になるからです。

パスカルはこういっています。

倦怠──情念もなく、職務もなく、気ばらしもなく、勉励もなく、まったく休息しているほど、人間にとってたえがたいことはない。そのとき彼は、自分の空しさ、やるせなさ、物足りなさ、頼りなさ、力なさ、つれなさを感じる。かれの魂の奥底からは、たちまち倦怠、憂鬱、悲しみ、悩み、恨み、絶望がわきあがるであろう。(パスカル『パンセ』)

気ばらし──人間のさまざまの激動、かれらが宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じる闘争や欲情、大胆な、ときには邪悪なくわだて、その他をたまたま考えてみたとき、私は人間のあらゆる不幸は、一室にじっとしていられないというこの一事からおこると、よくいったものだ。生活に困らないだけの財産を持っている人は、自宅で愉快に暮らすことができれば、べつに外に出て、船に乗ったり要塞の包囲線に加わったりしないであろう。町で動かずにいるのが堪えがたいことでなかったならば、だれも軍職をあんなに高く買わないであろう。また自宅で愉快にくらしうれば、だれも談話や賭事の気ばらしを求めはしないであろう。(パスカル『パンセ』)

人はなんらかの障害と戦いつつ、安静を求める。ところが、障害に打ち勝てば、安静は倦怠を生み出すので、堪えがたいものになり、そこから出て、激動を求めずにはいられない。なぜなら、人は現に感じているみじめさか、行く手をおびやかしているみじめさを思うからである。そして、たとえあらゆる方面において安全を十分保証されたにしても、倦怠が自分勝手に本来それが根ざしている心の底から発生し、その毒素をもって精神を充たさずにはおかないであろう。このように、人間ははなはだ不幸なので、なんら倦怠の原因がないときにすら、その気質の本来の状態によって倦怠におちいる。またかれはすこぶる空虚なので、倦怠におちいるべき無数の重大な原因に満ちていながら、玉突きや球打ちのようないたってつまらないことによって十分気をまぎらすのだ。(パスカル『パンセ』)

私たちは本質的に、つねに満足できない存在なので、
気ばらしや仕事などに熱中していた状態から
ふと我にかえると、
たちまち退屈になり、
けだるい気分、むなしい心が心の奥底から出てくるのだ、
とパスカルはいっています。

こういう種類の不満を「空虚・倦怠・退屈
と呼んでおきます。

人は、なんとか生活を安定させようと苦労しますが、
いざ求めていた安静が手に入ると、
それで満足すればよいのに、新しい刺激をもとめ、
しなくてもよい余分な苦労を始めます。

こうして、もうこれで満足、ということのないまま
同じことを繰り返しているのが人間です。

同じことをショーペンハウエルもいっています。

まず人は生きるために大変苦労しなければなりませんが、
安定した生活はすぐ退屈になって、
この退屈の解決が次の課題になるのです。

人生は先ず以て一つの課題として提示せられる。
即ち、それを維持しなければならない、おのが生活の為に働かなければならない、という課題である。ところがこの課題が解決されたとなると、獲得されたものがひとつの重荷となってくる。そしてそれを始末しなければならないという第二の課題が出現してくるのである。即ち、一切の安穏な生活の上に、あたかも待ち伏せしていた猛禽のように襲いかかってくるところの退屈なるものをふせがねばならない、という課題である。こういうわけで、何かを獲得するというのが第一の課題で、それが獲得されたあとに、その獲得されたものを退屈と感じないようにするというのが第二の課題なのである。何故というに、もしそうしないと、それが一つの重荷となるからである。
(ショーペンハウエル『現存在の虚無生に関する教説によせる補遺』)

人が楽しみを感じるのは、
気ばらしをして自分を忘れているときだけだ
ということもショーペンハウエルは言っています。

何かを追い求めるときか、
現実の人生から離れて純粋に施策に耽っているときには
楽しいと感じることができますが、
もしその二つに熱中しないで我にかえると、
人生が無意味に感じられます。
これが退屈です。

この惨めな姿を忘れようとして、
人は空しい気ばらしをするのです。

我々が我々の現存在に楽しみを見出すのは、追い求めているときか──この場合我々は距離と障碍に欺かれて目標を素晴らしいものであるかのように思い込むのであるが、この幻影は目標に到達すると消えてしまう──、でなければ、純粋に知的な営みに耽っているときか──だがこの場合には我々はもともと人生の外に抜け出ているので、いわば見物席にいる観客のように人生を外から眺めているのだ──、のいずれかの場合に限られている。……ところで我々が以上二つの場合のいずれかに没頭することなしに、現存在それ自身へとつれもどされるような場合には、その都度我々は現存在の無内容性と虚無性に直面させられることになる、──即ちこれが退屈ということなのである。──また我々のうちには奇異なるものを捉えようとする好奇心が抜きがたいまでに根強くひそんでいるが、これなども、余りにも退屈な事物の経過の自然的な秩序の中断を如何に熱烈に我々が見たがっているかを、物語っている。──さらにはまた権力者たちの豪奢な饗宴における華麗な装飾なども、結局のところ、我々の現存在の本質的な惨めさから抜け出ようとする空しい試みに他ならない。というのは、立ち並ぶろうそくに照り映える宝石・真珠・飾り毛・深紅のビロード、或いは踊り児や軽業師、さては仮装の戯れなどは、明るみのもとに吟味された場合、一体何なのであろうか。
(ショーペンハウエル『意志と表象としての世界 正編(II)』)

こうして私たちは、
苦痛と退屈のあいだを振り子のように左右に揺れ動く
(ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』)
のです。

人間世界の全体を一望のもとに眺めわたすように努めてみられたらいい。そうすれば、迫り来るところの、かつては瞬時ごとに出会われるところのあらゆる種類の危険と害悪に対抗して、生活と現存在のために、肉体と精神の一切の力をふるい起こして戦っているところの休みない戦闘と激烈な格闘が到る所に見うけられるであろう。──さてその上で、これら一切の努力に対する褒賞としての生活と現存在それ自身とを観察してみられたらどうであろう。そこに見出されるのは、苦痛のない生存がほんのしばらく続いたかと思うと、その上にすぐに退屈が襲いかかり、この退屈がまたじきに新しい困窮のために追い出される。といったようなことである──困窮がやむとすぐに退屈があらわれる。──……未だかつて、現在のなかで、自分は本当に幸福だと感じた人間は一人もいなかった、──もしそんなのがいたとしたら、多分酔っぱらってでもいたのだろう。
(ショーペンハウエル『現存材の虚無生に関する教説によせる補遺』)

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