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欲望に限りがないこと

望んでいたものが手に入っても、すぐ別のものがまた欲しくなって苦しむ。「願いはその本性からいって苦痛である。達成すればすぐさま飽きがくる。……所有すれば魅力を失う」
(ショーペンハウエル『意志と表象としての世界 正編(II)』

「欲望に限りがない」とは、
より詳しくいえば、
何かそれまで欲しかった物が、いざ手には入ると、
しばらくその喜びは続きますが、
すぐまた別の物が欲しくなって
もとの不満な状態に逆戻りするということです。

これについて紀元前の共和制ローマの哲学者、
ルクレティウスはこういっています。

渇望する憧れは、とても達せられないうちは、それが他の何物よりも優れたものでもあるかのように見えるにすぎない。その渇望も、一旦達してしまえば、またその後から別なものを我々は渇望するようになる。
(ルクレティウス『物の本質について』第三巻)

また、私たちは常に、
今自分が持っていないものを欲するため、
自分で自分を不幸にしていると、
パスカルはいっています。


我々をまどわすのは、自然が我々に与える憂慮ではなく、我々がわれわれ自身に与える憂慮にほかならない。
なぜなら、憂慮というものは、我々の現にある状態に、我々の現にない状態の欲望を加えるからだ。
自然は我々をどんな状態においてもつねに不幸にするので、我々は願望によって幸福な状態を描く。なぜなら、それらの願望は、我々の現にある状態に、我々の現にない状態の楽しさをつけ加えるからだ。そして我々がその楽しさに到達したとしても、それによって幸福にはなるまい。それというのは、我々はその新しい状態に応じる他の願望をおこすであろうから。(パスカル『パンセ』)

さらにこう記しています。

現に味わっている快楽を偽りと感じ、まだ味わわない快楽のむなしさを知らないところから、気まぐれが生まれる。(パスカル『パンセ』)

欲しがっていたものを手に入れても
その喜びが続かず、
次から次へとよりよいものを求めている姿を
ショーペンハウエルも描写しています。

われわれの人生の情景は粗いモザイクの絵に似ている。この絵を美しいとみるためには、それから遠く離れている必要があるので、間近にいてはそれは何の印象もあたえない。それと同じ道理で、何かしら憧れていたものを手にいれることは、それを空しいとさとることである。こうして我々はいつもより良いものを待ち望んで生きている。……それにまた、個体的意志は飽くことを知らない、という事情が加わってくる。そのことの故に、あらゆる満足はまた別の新しい願望を生み出してくるのであり、意志の欲求は永遠に充たされないまま果てしなく続いてゆく!
(ショーペンハウエル『現存在の虚無生に関する教説によせる補遺』)

こういう次第であるから、たいていの人達は、晩年におよんでおのが生涯をふりかえってみた場合、自分は自分の生涯を全くゆきあたりばったりに生きてきてしまったのだという風に感ずるようになるであろう。……通例、人間の生涯とは、希望に欺かれて死のかいなに飛び込む、ということにほかならないのである。
(ショーペンハウエル『現存在の虚無生に関する教説によせる補遺』)

ここで少なくともいえることは、
欲望でどれくらい苦しむかは別としても、
現在の幸福を喜ぶことは難しい
つまり今の状態に感謝して幸せな心になることは、
なかなかできないということです。

なぜなら、手に入れた幸福は
すぐにあるのが当たり前になってしまい、
改めて喜ぶことがほとんどなくなってしまうからです。

これが、次の「幸福の平常化」です。

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