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死を深く見つめたとき、絶望する

やがて死すべき存在であるという事実に直面したとき、挫折・絶望し、いかなる幸福も光を失う。──「死の竜と、私の生命の綱である灌木の幹をかじる鼠とを見ると同時に、いかなる蜜の甘さも私には甘美でありえなくなったのである」(トルストイ『懺悔』)

自分がいつか死なねばならない、いやそれはもうすぐかもしれない、
と真に自覚したとき、どのように絶望するか、
トルストイの『懺悔』をとおして見てみましょう。

(※トルストイの絶望が生々しく告白されているため、以下『懺悔』よりかなり長く引用します。したがって一回目に読まれる方は、全体の見通しをよくするために、引用部分は読まれなくても結構です。)

トルストイが51歳のころ、
一つの疑問が繰り返しわきあがるようになりました。

その懐疑とは、一体何のために、
農地を管理したり、
子供を教育したり、
書物を書いたりするのか、
ということです。

それがわからなければ一歩も進めない、
いや生きていくことさえできない。
それなのに答えはない。
トルストイの生活は停止しました。

もはや何の希望もありません。

もし何らかの希望が成就したところで、
一体それに何の意味があるのか。
すべては欺瞞であり、
望むべき物は何もないと分かったのでした。

五年前から、何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになって来た。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやって来るようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも『何のために?』『で、それから先きは?』という同一の疑問が湧き起るのであった。
私はこれが精神的な一時の風邪ではないことを悟った。これは実に重大事だ。いつも同一の疑問がくり返されるとしたら、私はそれに答えなければならない。──こう思った。で、私はこの疑問に答えようと試みた。この疑問は実に愚劣な、単純な、子供臭いものに思われていたのだが、いざ取り上げて、解決しようという段になると、たちまち私は、まず第一に、それが子供じみた愚かしい疑問でないどころか、人生におけるもっとも重要にして深刻な問題であるということ、それからさらに、いかほど頭をひねっても、自分にはこれを解決することができないのだということを、信ぜざるを得なくなった。サマーラの領地の管理や、子供の教育や、書物をあらわすことに着手する前に、何のためにそういう仕事をやるのかを知らなければならない。その理由を知りきわめないうちは、何事もなし得ないのだ。いや、それどころか、生きて行くことができないのだ。──こう信ぜざるをえなくなった。この時分に最も多く私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こって来るのだった。『よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……』そして私はしどろもどろになってしまって、それから先何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、『何のために?』こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、『だがオレにそれが何のかかわりがある?』突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。『よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかも知れない。──が、それがどうしたというんだ?……』これに対して私は何一つ答えることができなかった。
この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤が滅茶苦茶になったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きて来た生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きて行くべき何物もないような気持ちがした。
私の生活は停止した。呼吸したり、食ったり、飲んだり、眠ったりすることはできた。また、呼吸したり、食ったり、飲んだり、眠ったりせずにいられるわけのものではなかった。が、そこにはもう真の意味の生活はなかった。なぜなら、これを充実させることが合理的だと思われるような、そうした希望がなかったからである。よしんば何かを望むようなことがあっても、その希望を成就したところで成就しなかったところで、所詮何にもならないのだということが、私にはあらかじめ分かっていた。
かりに妖婆がやって来て、お前の望みを叶えてやろうと申し出ても、私は答えるべき言葉を知らなかったであろう。いわば今までのさまざまな希望の惰性のようなものが、現れて来ることがあっても、正気にかえった刹那には、これは欺瞞だ、望むべき何物もないのだということが、分かるのであった。(トルストイ『懺悔』)

ではトルストイはなぜ
このような懐疑におちいったのでしょうか。

それは、やがて死んでゆかねばならないという事実を、
真面目に凝視せずにおれなくなったからです。

いったい人間の存在とはいかなるものなのか。

それをトルストイは東洋の寓話の中にみいだし、
それは論じあう余地のない真実だ、といっています。

未来に確実に待っている死を忘れようとしても、
もうできない。
今まで数限りなく繰り返してきたからです。

古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。 猛獣から逃れて、旅人は水の涸れた古井戸の中へ逃げ込んだ。が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。 そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這い出ることもできず、そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。が、彼の手は弱って来た。で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。 それでも彼はつかまっていた。とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗めるのである。──私もまたこの旅人のように、私を牙にかけようと思って待ち構えている死の竜の避け難いことを知りながら、生の小枝に掴まっているのだ。そして私は、何でそんな苦悩の中へ落ち入ったかを知らないのだ。私もまたいままで自分を慰めてくれた蜜を嘗めてみる。──が、その蜜はもうこの私を喜ばせてくれない。そして白と黒との二ひきの鼠は、日夜の別なく、私のつかまっている生の小枝をがりがりと齧る。私はまざまざと竜の姿をまのあたり見ている。だから蜜ももう私には甘くないのである。私の見るのはただ一つ、──避け難い竜と鼠だけである、──そして私は彼らから目をそらすことができないのだ。これは決して単なる作り話ではない。まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ。
 竜に対する恐怖をまぎらせていた生の喜びといういままでの欺瞞は、もはや私を欺くことができなかった。お前は人生の意義をさとることができないのだ、考えずにただ生きよ、とどれほど自分にいってみても、私はそれをあえてすることができない。過去においてあまりにも久しくそれをくり返して来たからである。今や私は、たえず私を死の方へ引きずりながら駆けて行く日々夜々を見ずにはいられない。私はこれのみを見つめている、なぜなら、これのみが唯一の真理で、その他のすべてはみな欺瞞だからである。
他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、二滴の蜜──家族に対する愛と、私が芸術と名づけている著作に対する愛──さえも、もはや私には甘くないのである。『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いたわり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!
(トルストイ『懺悔』)

ここで重要なのは、トルストイがこのような絶望状態になったのは、
いかなる点から考えても、完全に幸せだったときだ、ということです。

三十年も四十年も生きて、人生を一望のうちに眺めたとき、トルストイが知ったのは、死という越すに越せない壁でした。

今日、でなければ明日にも死が襲いかかってくるかもしれない。

そして自分がやった業績もやがて忘れ去られてしまうだろう。

それなのに、なぜ皆あくせく働くのか?

なぜこの真実に目をつぶって生きていられるのか!
生に酔いしれているときだけ、我々は生きることができる。

しかし酔いから醒めたトルストイにとっては、
すべては欺瞞であり、
愚劣な迷いでしかありませんでした。

しかもこうした状態が私の身に起こったのは、いかなる点から考えても全くの幸福と思われるものが、私の境遇に恵まれている矢先だった。それは私がまだ五十歳未満の時分だったのである。私は愛し愛される善良な妻と、いい子供達と、私の方で別に骨を折らなくてもひとりでに増大して行く莫大な財産とを擁していた。私は過去のいかなる場合よりも、友人や知人から尊敬され、見知らぬ人達から賞賛された。そしてことらに自己をいつわらなくとも、私は自分の名声を日の出の勢いであると考えることができたのだ。のみならず、私は精神錯乱を来たしたり内的不健康にとらわれたりしていなかったばかりか、むしろ正反対で、精神的にも肉体的にも、自分と同年配の人々の間にめったに見かけられないような、素晴らしい精神力を享有していた。──肉体的方面においては、農夫達に遅れをとらずにずっと草刈りを続けることができたし、また精神的方面においては、たて続けに八時間ないし十時間位ずつ、仕事を続け、それど精神を張りつめても何ら悪い結果はなかった。にもかかわらず、こういう境地にありながら、私は生きていられないような気持ちに到達したのであった。
(トルストイ『懺悔』)

いろいろの学問を学び、精神的にも肉体的にも発達し成長しつつ、満三十年ないし四十年も生きて来た今にいたり、頭脳が完全に固まり、人生の全面容を一望のうちにおさめ得べき生涯の峠に達した今になって、人生には過去現在未来を通じてついに何物もないという事実をはっきりとさとって、その峠の上に馬鹿者の見本のような姿で立っているこの私を、じっと眺めながら楽しんでいる何ものかが、どこか向こうの方に居るように想像されざるを得ないのであった。そいつにしたら、滑稽で滑稽でたまらないだろうな……こんな風に想像されざるを得ないのであった。しかし、私を嘲笑するこういう何ものかが存在しても、しなくても、そのために私は楽にならなかった。自分の生活全体に対しても、そのいかなる行為に対しても、私は絶対に合理的な意義を附することができなかった。どうしてこんな明白な事実をそのはじめにおいて悟らずにいることができたのだろうと、ただただ驚かれるばかりであった。この事実はとうからすべての人に明々白々なのである。今日、でなければ 明日、疾病が、死が、私の愛する人々の上へ、また私の上へ、襲いかかって来るであろう、(現にいくどか襲いかかって来たのである!)そして、腐敗の悪臭と蛆虫の他、何物も残らなくなってしまうのだ。私の行為は、それがどのような行為であろうとも、早晩すべて忘れられてしまい、この私というものは、完全になくなってしまうのだ。それだのに、何であくせくするのだろう?どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか?──実に驚くべきことだ!そうだ、生に酔いしれている間だけ、われわれは生きることができるのだ。が、そうした陶酔から醒めると同時に、それがことごとく欺瞞であり、愚劣な迷いにすぎないことを、認めないわけには行かないのだ!つまり、この意味において、人生には面白いことやおかしいことなど何もないのだ。──ただもう残酷で愚劣なだけなのである。(トルストイ『懺悔』)

以上がトルストイの体験した絶望です。

死はすべての人のかかえた問題ですから、
どんな人も程度の差こそあれ、
何らかの形で絶望しているでしょう。

それがなんとなく不安な心となって現れている、
とキルケゴールは言っています。

全然健康な人などというものはおそらく一人もいないと医者は多分そういうであろうが、同じようにわれわれは、もしも我々が人間をよく知っているとすれば、何らかの意味でなにほどか絶望していないような人間は一人もいないと言わなければならないであろう。その最深の内奥に動揺・きしみ・分裂・不安のないような人間は一人もいない。──不安、知られざるあるものに対する不安、それを知ろうとすることさえも何となく恐ろしいような気のするあるものに対する不安、あるいは自己自身に対する不安、かかる不安のないような人間は一人もいない。──こういうふうに人間は精神の病を自分のうちに抱いて歩きまわっているので、病が内部にあるということが、時々電光のように、彼自身にも不可解な不安によって、示されるのである。(キルケゴール『死に至る病』岩波文庫)

社会が物質的に豊かになればなるほど、
心がますます大地から離れていくような、
不安が人々を覆っているのではないでしようか。

これだけ科学技術が進歩して、
社会制度も整っているのに、
ぼんやりした不満・不安があるのは、
現代人特有の病といわれています。

幸福の最内奥にも絶望がある、
つまり幸せの絶頂にありながらも、
死がそのかま首をもたげたときには、
絶望・不安となってあらわれる
ことを、
トルストイの例で知って頂きたいとおもいます。

幸福のはるかはるか奥のほうに、深く深く隠されている幸福の秘密の最内奥に、そこにもまた不安が、すなわち絶望が巣くうている。絶望が最も好んで巣をつくる選り抜きの一番魅力的な場所はそういう所──幸福のただ中である。(キルケゴール『死に至る病』岩波文庫)

人生の本当の意味とは?

今回、仏教をもとに
人生の本当の意味を解明するため、
仏教の真髄である苦悩の根元を
小冊子にまとめました。

ただし、この内容は、哲学者たちからすれば、
激怒し、抹殺したい内容かも知れません。
いずれにせよ、必ず批判することだろうと思います。
ですから、このことは、なるべく哲学者の皆さんには
言わないでください。

しかし、仏教によらねば、人生の意義を知るすべはありません。
ぜひご覧下さい。

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