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神を信じる利点

宗教的信念は、確かめることができませんから、
科学法則と違って、自然現象の予測・操作には役立ちません。
では一体何のために神を信じるのでしょうか。

神を信じるメリットを分かりやすくするために、
前のページとは少し異なる状況の、次のたとえ話をお読みください。

──クリスチャン氏とオッカム氏が、一筋の道を旅しています。他には道はなく、また二人ともこの道を通ったことがありません。
クリスチャン この道の最後には何があるんだろうね。
オッカム 何もないさ。
クリスチャン じゃあ、ぼくらの旅は無意味だってのかい?
オッカム そうだよ。
クリスチャン 君はずいぶん悲観的だね。僕はこの道の最後には、天の都があると信じてる。
──二人はやがて道に美味しい果物がなっているのを発見しました。
クリスチャン これは都の王の激励に違いない。感謝して頂こう。
──しばらく進むと、厳しい上り坂になり、おまけに激しく雨が降り出しました。
オッカム ああ。なんでこんな苦しい目に遇わなきゃならないんだ。
クリスチャン そんなに落ち込むなよ。こうやって障害を一つ一つ乗り越える間に、都で住む相応しい人間に成長するのさ。これは都の王の試練なんだよ。
オッカム そんなこと僕は信じないよ。どこに都があるなんていう証拠があるのさ。
クリスチャン そりゃこの道を最後まで行ってみなきゃ都があるかないか分からないさ。だけど僕は道を進めば進むほど、王が僕を待っているような気がするんだ。
オッカム 僕らの旅に目的なんかないさ。ま、とにかく僕らは先へ進まなきゃね。

 この話の中でクリスチャン氏は、
「この旅は天の都へ到達する、
都の王によって計画された旅である」

と信じています。

一方のオッカム氏は、
「この旅は無目的だ」
と考えています。

これはどちらも宗教的言明に属するもので、
どちらが正しいかは決められません。

これによって、二人ともやってくる幸福も不幸も同じですが、
受け止め方や解釈の仕方が異なります。

そしてそれぞれの解釈は、自分たちが作り上げたもので、
観察にもとづいたものではありません。

しかし、何の意味も分からずにひたすら苦しみに耐える
オッカム氏よりも、王の試練と受けとめて苦難を乗り越えようとする
クリスチャン氏の方が、この話の中では幸せそうです。

ここに、神を信じる利点があるのです。

人生に何の目的もない、生きる意味はない、と思って、
ただやってくる困難に耐えている人は、
生きるのが苦しいでしょう。

トルストイの例からも分かります。

それに対して、キリスト教の信者は、
苦しみがやってきても、神が与えた試練なんだと
自分を慰めることができます。

しかも自分の人生は、
神の国に行くまでの試練なのだという意味が与えられます。

そうすれば、
「人生は無意味だ」
という絶望が救われるのです。

トルストイ──信仰は生の原動力

トルストイは、結局キリスト教を信じるようになったようですが、
『懺悔』の中で、
「信仰は生の原動力」
だといっています。

自分は何かのために生きている、
という思いがなければ、
生きていけないからです。

人間は生きているかぎり、かならず何物かを信じている。もしも彼が、自分は何ものかのために生きなければならないのだ、ということを信じないならば、彼は生きていることができないはずである。(トルストイ『懺悔』)

そしてトルストイは、キリスト教によって生きる意味、
人生の意義を得たのです。

その意義は、もしも言葉に言い表すことができるとしたら、およそ次のようなものであった。──すべてわれわれ人間は神の意志によってこの世へ生まれ出た。そして神はわれわれ人間を、各自がその霊を滅ぼすこともできるように創り出した。この世の生涯における人間の使命は霊を救うことである。が、霊を救うには、神の意志に従って生きなければならず、神の意志に従って生きるためには、この世のあらゆる快楽を捨てて、ひたすら勤労し、身を恭順に保って、忍耐の徳を養い、そして慈悲深くならなければならない。(トルストイ『懺悔』)

トルストイは、最初は自分が生きていることに
十分意味があると思っていましたが、
死を見つめたとき、人生は完全な無意味だと絶望しました。

その後キリスト教によって生きる意味を得たのです。

信仰に対する過去と現在の私の態度は、全然相違なるものであった。前には人生そのものが、無量の意義にみちているように思われ、信仰は私に全然不必要な、不合理な、実生活と何らの繋がりもない教理教条に対する、我田引水的な裏打ちのように思いなされていた。一体これらの教理教条はどんな意義を持っているのか?この時私は自分にたずねた。そして、これらの教理教条が何の意義も持っていないと確信したので、私はこれを捨て去ったのであった。が、今度はそれと正反対で、私は自分の生活が何らの意義をも持たないこと、持ち得ないものであるということを、はっきりと知っていた。そして信仰上のさまざまな教理教条が、不必要なものと思われなかったのみならず、これらの教理教条のみが人生に意義を与えるものだという確信に、疑うべからざる自己の経験によって、私は到達したのである。前にはこれらのものを、全然不用な、読み難い文書と見なしていた。が、今や私は、これらの教理教条をまだ理解してはいなかったにしても、少なくともその中に意義のあることを知って、これを理解するように励まなければならないと、われとわが心に言うのだった。(トルストイ『懺悔』)

ニーチェ──弱者の道徳

トルストイが絶望から救われたように、
キリスト教は自殺を防ぐ生命の「保存手段」になると、
ニーチェは『権力への意志』でいっています。

ここでニーチェはキリスト教的仮説から得られる利益を
幾つか挙げています。

まず、神が人間を創ったとすれば、
人間は神の被造物という絶対的価値を持つことになります。

またこの世の苦しみも、例えば、
「これは神から与えられた試練であり、
これに耐えれば来世で救われる」
などというように、意味が与えられて気が楽になります。

そして絶対的価値を知ることができるとすることによって、
人間は最も重要なことを認識できることになり、
「我々は大切なことを知らない」
と絶望せずにすみます。

キリスト教的道徳の仮説はいかなる利益をもたらしたか?
(1)それは、生成や消滅の流れのうちにある人間の卑小性や偶然性とは反対に、人間に一つの絶対的価値をさずけた。
(2)それは、それが苦悩や禍害のあるにもかかわらず世界に完全性という性格を認めたかぎり、──かの「自由」もふくめて、神の弁護者をつとめた──禍害は意味に満ちていると思われたのである。
(3)それは、絶対的価値についての知識を人間は持ちうるとみなし、だから最も重要なものに対してこそ十全な認識を人間に与えた。
(4)それは、人間がおのれを人間として軽蔑しないように、生きることを敵視しないように、認識することに絶望しないように計らった。すなわちそれは、一つの保守手段であったのである。(ニーチェ『権力への意志』)

しかし『道徳の系譜』では、
キリスト教は弱者の道徳だと徹底的に批判しています。

ニーチェは、キリスト教はルサンチン、
つまり弱者の強者に対する恨み・妬みの憎悪から生まれた
道徳だと説きました。

例えば
「人もし汝の右の頬を打てば左も向けよ」
ですが、正直にいえば、
゛れしも殴られたり殴り返したいものです。

ところが、殴り返す力がない者は、
弱い無力な自分たちこそ幸せなんだ、
と心の中で復讐するのです。

マタイ伝の山上の垂訓に
「貧しき者はさいわいなるかな、天国は彼らのものである」
とあります。

神を設定して価値観を逆転することによって、
「貧しく無力な私たちこそ神に愛される善人である。
力をかさに着ている連中は、神の怒りで滅ぼされるのだ」
と、見事に自分たちが強者になることができます。

こうやって心の中で強者に復讐すれば、
少しは気分が晴れるというものです。

この地上で〈高貴な者〉・〈権勢家〉・〈支配者〉・〈権力者〉に歯向かってなされたいかなることも、ユダヤ人がこれらの者に反抗してやらかしたことに比べれば、言うにも足りないものである。僧侶的民族であるユダヤ人は、おのれの敵対者や、制圧者に仕返しをするのに、結局は、ただこれらの者の諸価値の徹底的な価値転換によってのみ、すなわち、もつとも精神的な復讐という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。……他ならぬユダヤ人こそは、恐怖を覚えるばかりの徹底性をもって、帰属的な価値方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)に対する逆転の試みをあえてし、底知れない憎悪(無力の憎悪)の歯がみをしながらこれを固執していた張本人であった。すなわちいう、「惨めな者のみが善いものである。貧しい者、力のない者、賤しい者のみが善い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬虔な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある。──これに反し、お前らに高貴にして権勢ある者ども、お前らこそは永遠に悪い者、残酷な者、酒色にふける者、貪欲な者、神に背く者である。お前らこそはまた永遠に救われない者、呪われた者、堕地獄の者であるだろう!」……このユダヤ的価値転換の遺産を相続した者が誰であるかを、我々は知っている。(ニーチェ『道徳の系譜』)

この価値観の転倒をニーチェは
道徳における奴隷一揆」と罵倒しています。

ユダヤ人、──タキトゥスや全古代世界の人々がいうところでは、「奴隷として生まれた」民族、そして彼自身が言いまた信じたところでは、「民族の中の選ばれた民族」──このユダヤ人が、価値の倒逆というあの奇跡劇をやってのけたのだ。……彼らの預言者たちは、〈富〉と〈背神〉と〈悪〉と〈暴虐〉と〈肉欲〉というものを一つに融け合わせてしまい、かくて初めて〈この世〉〈世界〉という言葉を汚辱の言葉にしてしまった。価値のこの倒逆(〈貧〉という言葉を、〈聖〉とか〈友〉とかの同義語として用いるのが、この一例だが)という点に、ユダヤ民族の意義がある。この民族と共に道徳における奴隷一揆が始まったのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

今まで見たキリスト教によって得られる利点をまとめます。

(1)人間に価値が与えられる。苦しみにも試練という意味が与えられる。

(2)弱い自分たちこそ本当の強者、幸せ者だと思いこめば、強者にたいする恨み・嫉妬・羨望をごまかし、精神の復讐ができる。

では、これだけで幸せになれるのでしょうか。

次に、キリスト教的浄福の限界について考えて見ましょう。

人生の本当の意味とは?

今回、仏教をもとに
人生の本当の意味を解明するため、
仏教の真髄である苦悩の根元を
小冊子にまとめました。

ただし、この内容は、哲学者たちからすれば、
激怒し、抹殺したい内容かも知れません。
いずれにせよ、必ず批判することだろうと思います。
ですから、このことは、なるべく哲学者の皆さんには
言わないでください。

しかし、仏教によらねば、人生の意義を知るすべはありません。
ぜひご覧下さい。

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人生の目的とは

人生の目的の意味を哲学する

現存在(人間)の解明

現存在のすがた① 不満

現存在のすがた② 不安

現存在のすがた③ 快楽

現存在のすがた④ 平静

現存在のすがた⑤ 不幸の忘却

現存在のすがた⑥ 宗教的浄福

真の幸福とは?