平静
定義:平静とは現状に満足を見出し、苦しみに心を乱されぬ状態
快楽主義者をエピキュリアンといいます。
これはギリシャの哲学者エピクロスに由来します。
哲学史上、個人名が生き方の名前になったのは、
これが唯一の例です。
快楽主義というと、
酒や美食などの快楽に溺れた生活を連想しますが、
エピクロスが説いた生活は、まったく違います。
「自分にパンと水さえあれば、
幸福において神に負けない」
と言ったエピクロス自身は、
無欲な生活をしていました。
エピクロスは、不必要な欲を起こさず、
苦痛や不満を感じない心の安静、
つまりアタラクシア(平静)が本当の幸福だ
というのです。
欲望を満たすことによって得られる快楽もありますが、
現実には欲を満たそうとしても、
思うようにならないことがほとんどです。
それならば、むしろ欲は起こさず、
不満に悩まされない状態で満足すべきだ、
となるのは、自然な論理です。
快楽主義は、快楽を人生の目的としますが、
快楽をどこまでも追求しようとすると、
かえって禁欲的な生活になります。
これは快楽主義の逆説と呼ばれています。
定理1:欲望は無限だから心の平静は不可能である。
確かにどんな時でも満足を見出すことのできる人は
幸せでしょう。
しかし、普通の人は、逆境がやって来ると、苦しみます。
そんなときに、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
と一切の感情を消し去ることが果たしてできるでしょうか。
たとえ逆境がやって来なかったとしても、
欲望は無限に広がり、その欲のために苦しみます。
アウグスティヌスは、女性との関係を完全と断ち切り、
あらゆる欲望とたたかいましたが、
それでもこう言っています。
必要限度を超えて、少しでも誘われない人がいるでしょうか。もしそのような者があるなら、そのような人は偉大である。……しかし私はそのような者ではない。(アウグスティヌス『告白』)
人間の欲望は、前に述べた通り、限りなく広がるのです。
定理2:現実は直視して平静を保てるほど甘くない。
ニーチェは、運命をただ単に堪え忍ぶのではなく、
現状を肯定し愛する「運命の愛」によって、
人生の悲惨さを乗り越えることができると説きました。
では私たちの運命は愛するに値するような
ものでしょうか。
『創世記』の中で、神は世界を創ったあと、
「これでよし」
と自己満足しています。
愛の神が意地悪して最善でない世界を
創るはずはありませんから、
この世界は最も素晴らしいものになっている、
というのがライプニッツの最善説です。
それに対し、現実の世界は決してそんな
生やさしいものではない、
と徹底的に批判したのが、ヴォルテールの小説
『カンディード』です。
その中でパングロスは、
この最善の世界においてはすべてが最善に仕組まれていると
カンディードに教えます。
しかしそれにも関わらずカンディードは、
これでもか、これでもかと、
次々に災難に遇うのです。
ショーペンハウエルは、この苦難に満ちた世界を
神が創ったなどというのは、甚だ不合理だといっています。
エホバという神が、自分の心を楽しませるために困窮と悲惨のこの世界を創り出しておいて、さておまけに「すべて甚だ善し」などと自分一人で拍手喝采したというにいたってはもう我慢がならない。(ショーペンハウエル『世界の苦悩に関する教説によせる補遺』)
人生においては、次々と困難がやってきます。
苦難の現実を直視しながら、なお心の平静を保つのは、
至難の業でしょう。
生きている間にやってくる色々な苦しいことを
それなりに我慢してみな生きているのは、
苦しみを直視して、なおそれに堪えて
心の平静を保っているのではありません。
ただ気晴らしによって不幸を忘れているだけなのです。
人生の本当の意味とは?
今回、仏教をもとに
人生の本当の意味を解明するため、
仏教の真髄である苦悩の根元を
小冊子にまとめました。
ただし、この内容は、哲学者たちからすれば、
激怒し、抹殺したい内容かも知れません。
いずれにせよ、必ず批判することだろうと思います。
ですから、このことは、なるべく哲学者の皆さんには
言わないでください。
しかし、仏教によらねば、人生の意義を知るすべはありません。
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