死の隠蔽
私たちは、人間は死すべき者だということを
知ってはいますが、自分の問題として考えてはいません。
死ぬのは他人が先であって、
自分はまだまだ死なないと思っています。
そして実際には自分もいつ死ぬか分からないのに、
死を「他人の死」と解釈して
自分から死を隠していると
二十世紀最大の哲学者の一人、
ハイデガーは言っています。
あれこれの近親者や遠縁の人が「死ぬ」。見知らぬ人々ならば、毎日、毎時間、「死んでいく」。「死」は、世界の内部で起こる当り前の出来事である。…そして世間はまた、この出来事にそなえてすでに一つの解釈を用意している。死について口にだして、あるいはたいていは言葉をはばかるようにして世間が漏らす話の趣旨は、《人はいつかはきっと死ぬ、しかし当分は自分の番ではない》ということなのである。……このような話の中で、死は漠然とやがてどこかからやってくるに違いない何かあるものとして、しかし当分は自分自身にとってまだ実在的に存在していないから心配にならないものとして了解されている。《人は死ぬ》という話し方は、死はいわば世間の人の身の上におこるひとごとだという意見をひろめる。…死へ臨んでそれを隠しながら回避することは、日常生活を根づよく支配する態度である。……事実的には、各自の現存在はいつも死に臨んでおり、すなわちおのれの終末へ臨む存在のなかに立っている。この事実を、現存在は死を日常的に他の人々の身の上に発生する死亡事例に変造することによって、自分から隠すのである。そして他の人々の死亡に接するにつけても、それに引きかえ「自分自身」はまだ「生きているではないか」と、改めて一層
はっきりと安心することになるのである。
……《死は確かにやってくる、しかし今すぐというわけではない》と人はいう。この《しかし》によって世間は死が確実であることを打ち消す。…こうして世間は死の確実さの特異な正確、すなわち死はいかなる瞬間においても可能であるということを、蔽い隠してしまう。(ハイデガー『存在と時間』理想社)
死を問題にするのは不安なことです。
しかし世間の平均的人間は、
この不安に立ち向かって死について
考えることを臆病な暗いことだとして、
死に無関心であることを強制しています。
公開的にみれば、「死の事を考える」だけでも、すでに臆病な恐怖心、生活の自信のなさ、陰気な現実逃避とみなされる。世間は、《死へ臨む不安》への勇気が湧くのを抑える。……世間はこの不安を逆転して、襲ってくる出来事に対する怖れとすりかえるように工夫する。こうして不安を怖れとして紛らわした上で、世間はそれを自信にみちた現存在の潔しとしない弱気だといいふらす。(ハイデガー『存在と時間』理想社)
死んだら死んだとき、という人もあります。
死んだらもう自分はいなくなるんだから、
死は自分と無関係だという考えを、
実存主義の代表的哲学者の一人、
カール・ヤスパースはこう批判しています。
その考え方は、死による非存在という事態に思いいたったときの、ぞっとするような気持ちまでをも除いてくれることはない。それは、確かに死を見つめているように思われるけれども、しかし、実はただ、本質的な点ではそれだけいっそう深い健忘症を招いているにすぎない。つまり、次のことが脇に押しのけられているのである。すなわち、私はまだやり遂げねばならないことを抱えているということ、私は完成してはいないということ、私はまだ償いをしなければならないということ、……これである。(ヤスパース『哲学』中央公論社)
死について考えなければならない理由については、
ハイデガーの思想の一つの解釈をあげておきましょう。
確かに私たちは、日常ハイデッガーのいうように自分の死を遠い将来のこととして忘れ去り、あれこれの仕事に追われて忙しく過ごしている。しかし、どのようなことでも死に対抗することができるだけの重みをもった仕事が日常生活の中にあるだろうか。人は自分の死に直面したとき、初めて、それまで自分が果たしてきたことの空しさを覚えて慄然とするのが常のようである。そのような物語は、今まで多くの文学者や宗教家や思想家によって数多く語られている。いわば死は多くの人たちにとって、自分の生を写し出す鏡のような役目をしてきたし、私たちにとっても、そうありうるものであろう。だからもし、私たちが生きてゆく一瞬一瞬を死の鏡に映し出しながら生きてゆけば、その一瞬一瞬をあたかも自分の生全体を生き抜いたかのように充実して生きていけるに違いない。ハイデッガーが説くこともそのようなことだといってよいであろう。(新井恵雄『ハイデッガー』清水書院)
死を隠してそこから逃げるのではなく、
いつか自分も死んでゆくのだという事実をはっきり自覚した上で
選択・決断してゆくことを、
ハイデガーは「死への先駆」とよんでいます。
真面目に死を凝視し、死を乗り越える者にのみ、
真の生が開かれるのです。
私たちはなかなか自分が死ぬとは思えないので、
死のことを考える必要性もあまり感じません。
しかし実際に死が目前に迫ったとき、死を忘れていた
非本来的名自己の姿が知らされます。
もしガンを宣告されたら、
生きている間になすべきことは何か、
人間としてまだやり残していることは何か、
必死に考え、探すでしょう。
これこそが本来あるべき姿、
本来的自己ではないでしょうか。
だからパスカルは、
あと一週間しか命がないように生活しなければならないし、
その一週間ですべきことなら生涯かけてもしなければならない
といっているのです。
情念に邪魔されないために、一週間の生命しかないように行動しよう。(パスカル『パンセ』)
もし人が一週間をささげるべきであるならば、全生涯をささげるべきである。(パスカル『パンセ』)
では、具体的には、どう生きればいいのでしょうか。
まず、実際に私たちがどのような生き方をしているか
見ていきたいと思います。
人は幸福になろうとして生きていますから、
生き方を分類するということとは、
幸福を分類するということになります。
人生の本当の意味とは?
今回、仏教をもとに
人生の本当の意味を解明するため、
仏教の真髄である苦悩の根元を
小冊子にまとめました。
ただし、この内容は、哲学者たちからすれば、
激怒し、抹殺したい内容かも知れません。
いずれにせよ、必ず批判することだろうと思います。
ですから、このことは、なるべく哲学者の皆さんには
言わないでください。
しかし、仏教によらねば、人生の意義を知るすべはありません。
ぜひご覧下さい。
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